はじめに
甘味が強く粒が大きいことから栗の王様とも呼ばれる利平栗は、昭和15年現在の岐阜県山県市大桑で生まれました。
利平栗の出現は、人々の栗に対する印象を変える画期的な出来事でした。
「甘い」「大きい」という二つの要素を兼ね備えた栗は、それまで存在しなかったからです。
この革新的な栗を作り出したのは土田健吉という人です。
一介の百姓にすぎなかった土田さんが利平栗を生み出すに至るには、新しい栗への飽くなき情熱とたゆまぬ努力がありました。
きっかけ
土田健吉さんは、明治36年大桑で農家の長男として生まれました。
大桑は古くから栗の生産が盛んな地区で、土田さんの家でも代々生業としてきました。
特に健吉さんの祖父利平治さんは栽培に熱心な人で、畑でひときわ大きな実をつける栗の木に着目し、それを接木によって改良して大桑大粒という新しい品種に育て上げるのに成功しました。
*「利平治」は土田家に代々伝わる屋号で、跡取りによって受け継がれてきた
健吉さんも、幼少から栗の栽培を手伝いながら次第に栗の魅力に目覚め、生育に励むようになりました。
ある時、栗を売りに出かけた健吉さんは、自分たちよりも高値で取り引きされている栗があることに気づきました。
それは中国産の栗でした。粒こそ小さいものの、甘くて皮がむきやすいと大変人気があったのです。
理想
中国産に負けないような栗を、自分でつくれないものだろうか。
健吉さんは、他県まで出掛けては栗の栽培技術について教えを請うようになりました。
また、良い栗があると聞けば国内だけでなく朝鮮や中国からも苗木を取り寄せ、意欲的に品種改良に取り組みました。
やがて、中国栗と粒の大きい大桑大粒とを掛け合わせることで、甘くて大きい栗ができるのではないかと考えるようになり、二種の交配を重ねてゆきました。
試練
ところが、研究は戦争によって突然中止に追い込まれました。召集令状が届いたのです。
栗の成長には数年かかるため、掛け合わせた苗には実がついていないものも沢山ありました。
結果を見ることもかなわず、健吉さんは後ろ髪をひかれる思いで戦場に赴きました。
結実
やがて戦争が終わり、故郷に戻った健吉さんは、真っ先に裏山に向かいました。
真っ先に目に飛び込んできたのは、何年も放置されて荒れ果てた栗畑の姿でした。
雑草や雑木が生い茂り、栗の枝は四方八方に伸び放題の有様です。
交配させた栗はどうなったのか、不安に駆られながら健吉さんは苗を植えた場所に登ってゆきました。
荒地のかなたに、栗のいがが見えた気がしました。近づいてみると、茶褐色に光る丸くて大きな実が生っています。
それまでに見たことのない栗で、健吉さんは新種と直感しました。
はやる気持ちを抑えながら家に持ち帰り食べてみると、栗は中国産に匹敵するほど甘いことが判りました。
それは、まさしく目指していた栗でした。
命名
健吉さんは、その感動を「天から与えられた品種か、祖先の加護か、夢にまで描いた品種が完成した」と記しています。
そして、新しい栗に土田家に代々伝わる屋号「利平治」から二文字をとって、利平栗と命名することにしました。
利平栗は、その後全国に普及し、沢山の人に愛されるようになりました。
土田健吉さんが生み出した利平栗の原木は、80年を過ぎた今でも裏山の栗畑に残っており、毎年秋になると輝かしい実をつけています。
山県市大桑の「四国山香りの森公園」に建つ記念碑
「利平栗発祥の地」の文字が、栗の形に似た自然石に彫られている
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